来院された方はお気づきになられたと思いますが、当院受付の左上方に古い書が掲示してあります。
旧医院時代より掲げてありましたが、由来につきお問い合わせをいただいたため、私(院長)の備忘録的な意味もあり
ここに記しておきます。あまりきちんと調べたわけではありませんので、もし間違いがありましたらぜひ、ご教授ください。
(甚三氏還暦時)
1860年(万延元年)に香川県綾歌郡に生まれた私(現院長)の曽祖父、三好甚三氏は当地において当時主流であった漢方医学による開業医として香川県綾歌郡羽床にて活動しておりました。
その頃、西洋医学が全盛となりつつある日本の医学の転換期であり、甚三氏も西洋医学修行のために明治8年~(詳細不明です)に上京しました。
東京では、大学東校(現在の東大医学部)、済生学舎、順天堂医院などで各地より学生を集めていたようです。
甚三氏は明治8年に東京に移転した順天堂医院において当時の堂主、佐藤 進先生の門下生となり修行(期間、内容は不明です)したとのこと、その時に件の書をいただきました。
私は書についてはほとんど知識がありませんが、書の左端に「茶崖 進」とあり、当時、佐藤進先生が使用していた号と思われます。(茶崖とは順天堂のある御茶ノ水の両岸のことです)
その後、香川県に戻り開業を続けた甚三氏は明治17年に初めて全国統一で行われた医師の資格試験「医業開業試験」に「従来開業医」(以前より従来医学:漢方医学で開業していたものは経過措置のようなもので無試験?で合格)
として合格したのち、長男の純一氏(私の大叔父)が後継となるまで診療しておりました。
(大正期の医師年鑑、「日本杏林要覧」より)
2代目(甚三氏以前の情報がありません故、2代目とさせていただきました)の純一氏は京都府立医学校(現京都府立医大)を明治40年に卒業し軍医当を経て甚三氏のあとを継ぎ開業されました。
大正時代の全国の医師年鑑にお二人が収載されているのを見つけたため上に掲示します。
純一氏には男子がなく婿養子を迎え開業医を続けていた様ですが、やはり後継ができず戦後しばらくし医業廃業となってしまったようです。
一方、甚三氏の三男である私の祖父、舜平氏は神戸にでて銀行に勤務。昭和2年に私の父が生まれました。父は中学時代より東京で過ごし、旧制東京高等学校卒業し千葉医科大学入学、昭和29年に卒業し当時の第二内科に入局、主に循環器内科学を中心に診療にあたり、同じく千葉大学医学部を卒業した私の母と結婚、昭和44年に世田谷区赤堤2丁目に三好内科を開業しました。
その時に2代目純一氏の娘である三好富美様より医家としての三好家の伝承物としていただいたものが上の「五石堂」の書になります。
ところで「五石堂」の意味するところですが、私の父がだいぶ弱ってしまったため正解はわからなくなってしまいました。かつて私の幼少時、待合室に飾ってあった書につき父に尋ねたところ、
「五石とは江戸時代の収入を表すもので、うちは五石以上収入があってはいけないということ、医業で儲けてはいけないということを表している」と言われました。
当時、5石を調べたところ、大変少ない収入であることがわかり、なんとなく寂しく?なったことを覚えています。
しかしながら私が大学病院を辞し、開業継承にて戻ってきたときに再度質問すると、
「五石とは漢方医学で用いられる不老長寿の処方である」と言われなるほど、と思う反面、父が幼少時に私に伝えようとしたのは医業の心得のようなものだ感じ、身が引き締まる思いでした。
ただし父も本当のところはきちんと聞いていないらしく、佐藤進先生が曽祖父に何を期待して書を渡したのか、今一度調べてみたいと思います。
今回、医院移転にあたり改めて書を掲示しました。
この書に恥じないよう、先代たちの志を受け継いで医業に専念したく思います。
今後共よろしくお願いいたします。
(なお当時のことなどご存知の方、何か間違いを見つけられたかた、ぜひご教授ください)
院長 三好 邦